2012年4月1日日曜日

自己愛と人格


自己愛と人格

市橋秀夫


1.正常自己愛

自己を愛する事は病的なことではない。むしろ種を維持するための合目的的な、おそらく生得的にプログラムされた本能衝動の一つであろう。もし、自己を愛することができなければ、私たちは一切積極的に生きることはできなくなり、死、あるいは死の類似行為を繰り返さざるをえないだろう。われわれ精神科医の前に来る自己破壊行為を繰り返している患者は、自己を愛せない病理を抱えている。

行動生物学 ethology によると、それまで学習の結果あるいは生得的行動と考えられてきた行動が、刷り込み imprinting という生育初期の敏感期(臨界期)に加えられた行動によって作られることを示しているが、「生得性」は種に行動の可能性を与える基礎として機能し、臨界期に加えられた外部からの行動刺激によって完成する。たとえば言語獲得はヒトにとって、獲得可能性を生得的に用意するが、その獲得には臨界期までの「語りかける存在」を必要とすることが多くの野生児研究で明らかにになっている。自己を愛するという感覚はヒトの可能性として与えられるが、それを完成させるにはまず愛される必要がある。問題はその時期であり、2歳半までに無条件に愛される体験をもたなければならないことを多くの臨床経験が教える。

正常自己愛の形成は学派によってさまざまな仮説があるが、これにはふれない。筆者の考えは基本� �には ethological(動物行動学的) な立場に立っている。子は親から愛されることを前提にして生まれてくる。愛されるということは、子にとって自分では処理できないさまざまな身体的苦痛(空腹、排泄物の不快、寒さなど)を取り除いてもらえる対象、自分が柔らかで暖かいものに包まれて安全感と満足感を与えてくれる対象によってもたらされるものであり、なにより自分に関心を持って見つめ、自分をわかってくれる存在によって与えられるものである。しつけの行われはる時期以降は、人は無条件には愛されることはない。思春期以降の世界では愛は相互的であることを要求される。例外は乳幼児期であり、自分がいるというだけで養育者が喜びの表情を浮かべ、何をしても許されるという特殊な愛のかたちをとる。無条件で愛されることによって、自分がこの世� ��存在してもよいという感覚を獲得し、それを自明のものとして次の発達段階を迎えるのである。

もし言語獲得以前の幼児が言語を獲得していたと仮定して、「○○ちゃん、君自分のこと好き?」と問いかけをするなら、正常自己愛をもつ幼児は「うん大好きだよ」と答えるだろう。「どうして?」と問えば、「だってお母さんが僕のことを大好きだから。だから、僕はお母さんが大好き」と答えるだろう。愛される自分があって愛する対象が生じるのである。自己愛性パーソナリティ障害 narcissistic personality disorder(NPD)とは正常自己愛の発達の障害としてとらえるべきである。

2.自己愛性パーソナリティ障害とは

personality disorder に対する「人格障害」という翻訳は、人格という日本語が特定の価値概念を含むために避けることにした。「人格障害」は差別用語となる可能性を持つと考えるからである。パーソナリティは個人が示す環境との恒常的な応答のパターンと理解され、そこには個人の認知、自己意識、個人の特有な幻想などの総体として表現されるものである。そのため以下本稿ではパーソナリティ障害という用語を使うことにする。

DSM-IVでは表1の診断基準を当てている。

表1 自己愛性パーソナリティ障害の診断基準より


まず、基本的特徴として誇大性、賞賛されたいという欲求、共感の欠如などの広範な様式で、成人早期までに始まり、さまざまな状況で示されるとし、以下のうち5つ以上示されるとして9項目を掲げる。

(1)自己の重要性に関する誇大な感覚。十分な業績がないのに、優れていると認められることを期待する。

(2)限りない成功、権力、才気、美しさ、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。

(3)自分が特別であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人たちや施設にしか理解できない、あるいは関係があるべきだと信じている。

(4)過剰な賞賛を求める。

(5)特権意識、つまり特別な有利な取り計らい、または自分の期待に自動的に従うことを理由なく期待する。

(6)対人関係で相手を不当に利用する。つまり自分自身の目的を達成するために他人を利用する。

(7)共感性の欠如:他人の気持ちや欲求を認識しようとしない、またはそれに気づこうとしない。

(8)しば しば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。

(9)尊大で傲慢な行動、態度。

(American Psychiatric Association : Quick Reference to the Diagnostic Criteria from DSM-IV,APA,washington DC.1994 より筆者訳)

DSM-IVの診断は症候学であり、この基準によって診断することは臨床的に困難である。ここで挙げられる人格傾向の標識は、1 理想的、万能的、誇大的な自己感覚とその感覚を維持しようとする行動、2 嫉妬と羨望の感情、3 他者に対する共感性の欠如である。しかし、われわれの前に現れる自己愛性パーソナリティ障害の患者たちはこれと違った問題をもっている。現実生活において思う通りにならない事態に直面せず、挫折していない人たちは決してわれわれの前には現れないからである。

シャーロック・ホームズは初期の作品において、しばしば退屈感と抑うつ気分に襲われ、ほとんど活動できない状態になる。それを乗り越えるために彼はコカインを静注して高揚感を獲得したりする。あるいはワトソン相手に自分の天才性について自慢話をするか、自分が活躍できる事件の到来によって元気を回復する。その天才的洞察力と推理力によって、彼が事件解決に成功する限りわれわれの前に現れることはない。事件解決に連続して失敗したら(すなわち コナン・ドイルが推理小説家として成功せず、はやらない開業医としての人生を歩んだら)、この魅力あるホームズは物質依存症、対人関係困難、うつ状態、引きこもりの患者としてわれわれの前に現れるかもしれない。受診する自己愛性人格障害の患者は「思う通りにならなくなって」から初めて事例化するのである。

DSM-IVの各診断項目を主訴として来院すると考えるのは非現実的である。こうした特性は面接をしていくうちに明らかになるものであって、受診動機はうつ症状(精神運動抑制、抑うつ気分)、あるいは摂食障害、引きこもり、職場の対人関係困難、家庭生活の不具合、家庭内暴力、不登校、物質依存などである。自己愛性パーソナリティ障害が診断上見逃されやすいのは、DSM-IVの基準が通常の面接家庭で本人から述 べられることがまずないからであろう。

3.診断に導く鍵

1)表出

表出によって診断を下すことはできないし、外面と内面とが全く異なる人が多いことを私たちはみな経験している。しかしあえて医師の主観的印象をデフォルメして描写すれば、いくつかの特徴的な特性を取り出すことができる。面接に入る前の待合室から彼らは一種のいやなオーラを発している。不機嫌そうにあたりを見下し、受付の事務スタッフには尊大な態度を示し、たとえ自分が誤っていても自己の正当性を一方的に主張する。平気で嘘をつく。待たされると文句をいう。屁理屈をこねるなど。医師の前で座った彼と受付スタッフのいう彼とが極端に異なるのである。

面接室に入ると、彼らはどういう態度をとったらよいか迷うらしく、結局は一種構えたような姿勢で話しはじめる。あ� �人は椅子にふんぞり返ったり、あるいは足を組んだり、斜めに座って話しはじめる。弱みをみせないような姿勢があり、気配り人間の内因性うつ病者と異なる面をみせる。些細であっても見下しと思われる応対に対して敏感に反応し、怒りを表出する。コンタクトは一種独特なものであり、堅い鎧を着ているかのごときぎこちなさがあり、面接医との距離も遠目にとろうとする(境界例の患者は接近してくる)。彼らは本質的にフィロバティスム的な距離の人である。不幸な刻印として一種のかわいげのなさがあり、それは甘えを拒否して生きてきた印でもある。

しかしこうした姿は見せかけであって、かれらは決して孤高の人ではない。互いのぬくもりを求めて接近したいが、近づくと互いのトゲによって近寄れないというヤマア� �シのジレンマの世界に住んでいる。堅い鎧の下には柔らかで傷づきやすい皮膚が隠されており、面接が順調にいくと、堅い鎧がはずれて彼らの別な姿、すなわち、小心で、敏感で、子どものように純粋な部分が見えてくる。彼らの中核的な悩みである自分を愛せないこと、自分が無価値と感じていることを面接の最初に気づき、その苦痛を理解することが重要である。

彼らの主訴で一番多いのは抑うつ症状である。抑うつ症状の特性については症状のところでふれるが、症候学的には内因性うつ病のそれと変わらない。さりげなく自分が普通の人と違うものをもっていることを示そうとする(ブランド、学歴、資格、スタイル、センス、ポリシー、容貌、など)。また、医師を値踏みしようとする。


双極性障害、あまりにも症状は何ですか?

面接がうまくいくと彼らの表出は一変して柔らかになり、子どものような表情をみせるようになる。それは堅い鎧の下に隠れた柔らかい皮膚をみせるときである。それまでの構えた傲慢な姿勢は消失し、受付にも「ありがとうございました」と礼を言って帰るのでスタッフは面接がうまくいったことがわかるという。

2)生活史上の特徴と自己愛性障害

幼児期の両親との関係については後に述べることにする。初診の時点で得られる特徴的な出来事として学校でいじめの被害にあっていることが多いこと、不登校や中退も少なくないこと、高校時代に中退して、あるいは受験に失敗して海外に留学するという生活史、就職後に一見、見栄えのするいわゆるカタカナ文字の職業に就く傾向、転職が多いこと、家庭生活ではセックスレスの夫婦関係などが見られる。実績も裏づけも努力もしていないのに、歌手、小説家、研究者などになるとか、人からすごいと思われるような職業に就きたい、就けると思い込んでいる人もいる。

現在の学校世界ではいじめが横行していることは周知の事実であり、いじめを加える側に問題があることは論をまた� ��いが、いじめられやすさに自己愛の問題点を見いだすことができる。彼らは自分では意識してはいないが、どこか尊大で、他者を見下し、協調性に欠け、他者に対する共感性の欠如から自分勝手と受けとられやすく、他者からの攻撃を受けやすい弱点がある。いじめの体験は彼らの自己愛をよりいっそう先鋭化させる。

学校や職業選択でも彼らは見栄えを重視する。偏差値が高いというだけで医学部を志望したり、逃避的な海外留学を志すこともそれであり、彼らは他人より常に輝きたいのである。

家庭生活においても多くの問題を抱えている。彼らにとって他者は「家族」か「使用人」か「敵」でしかない。配偶者を道具として使い、あるいは理想的な母を求めて妻を理想化し、その理想化が幻滅に変わると怒りや暴力を振る う。妻が母の代理を演じているときには妻は異性ではなく、家族=母になってしまうために性関係をもつことはできなくなる(「だって家族とはセックスできないでしょう?」・・・ある患者の言葉)。

彼らは仕事面で能力があれば高い地位まで昇進する。対人関係を顧慮することなく、仕事の成果という「結果」だけを求めるからである。しかし、ある程度思い自己愛の病理をもっている人はそもそも社会参加をすることが難しい。傷つくことを恐れて引きこもり状態になる。彼らは失敗して叱られることを極端に恐れる。そういう意味で外見の強がりに反してきわめて臆病で気が小さいとも言える。

3)臨床症状と関連する障害

自己愛性パーソナリティ障害は、境界性パーソナリティ障害 borderline personality disorder(BPD) と合併することが少なくない。境界性パーソナリティ障害の患者を治療する過程で、その症状が消失してくると、自己愛性構造の問題点が表面化してくる症例が多く、両者の混合型は意外と多いのである。ここでは定型例を中心として取り上げることにする。

そもそもパーソナリティ障害には統合失調症のような「症状」は存在しない。先に述べたように、現実が思いどおりにならないという事態に直面してから事例化するのである。

自己愛性構造のもつ基本症状は自己不信であり、自分を好きになれないという病理であろう。分析が進むと、彼らは「自分はこの世に生まれるべきでなかった」「生きていてごめんなさいという気持ちにいつもとらわれていた」と述懐するようになる。その無力で無価値な自分を中心に抱えて生� �ることは難しく、それにつり合うだけの空想的な万能・理想的な誇大自己を形成し続けると理解される。彼らの傲慢さや見下し、あるいは普通と異なった特別な存在であることを自身で確認しようとし、他者にそれをみせつけようとするのは、彼らの本質ではない。

その背後に傷つきやすく、臆病で、叱られることを怖がるような小心な心性、真の評価が下されることを回避する心性が隠されているのである。彼らは自分自身を信用していないので、決して他者を信じることはできない。「尊敬する人がいるなんていう人がいますが、私には考えられません」といい、「本心を言えば、他人は道具、モノでしかありません。利用するだけです。家族は別ですけど」とも語ることがある。しかし家族に対する感情こそが治療においても� �とも問題となることである。愛と信頼の欠如という問題を抱えている彼らは、他方では信頼できる人物を探し求め、自分をわかってもらい、受け止めてもらい、無条件に愛されることを求める。

受診はDSM-IVの一軸診断の症状があるからである。パーソナリティ障害は統合失調症をはじめとして発達障害など、あらゆる障害に合併する可能性があるが、自己愛性構造がある特定の障害を用意するというのが関連障害である。「合併」と「関連障害」は臨床的には区別すべきであろう。

関連障害のうち、最も多いのは気分障害、すなわち大うつ病と気分変調性障害などである。後述するように、摂食障害は境界性パーソナリティ障害よりもはるかに自己愛性構造と関連があり、また強迫性障害 obsessive-compulsive disorder(OCD)、反社会性パーソナリティ障害 antisocial personality disorder、身体化障害、物質依存のなかにも自己愛性構造が強く関与していることも少なくない。自我同一性障害を訴えてくる人や不登校、あるいは五月病・モラトリアム人間・退却神経症などと自分で診断してくる人、ストーカー行為や性的倒錯、勤務困難などを訴えてくる患者には背後に深刻な自己愛性構造をもつ人が多い。

よく起こる誤診は双極性障害や急速交代型であり、それは誇大的自己と無能的自己の交代が頻回に起こるためである。また社会的引きこもりを自閉とみなし、誇大的自己が作る被迫害感や誇大的観念は妄想とみなされて、妄想型統合失調症と誤診されることもしばしば経験している。

自己愛性パーソナリティ障害と診断する鍵となる症候を筆者は「自己愛の三徴」としてまとめた。

4.自己愛の三徴(あるいは四徴)

自己愛性人格障害の三徴は、1 抑うつ、2 引きこもり、3 怒り、である。これに強迫症を加えて四徴としてもよい。これは診断基準ではなく、診断を思いつくための症候である。三徴(四徴)は独特な特性を持っている。

1)抑うつ

症候学的には内因性うつ病の症状と変わりはない。精神運動制止、思考制止、否定思考、抑うつ気分などである。しかし詳細に検討すると、「持続しないが頻回に襲う抑うつと無力感」、「退屈感」、「ばかばかしい感じ(何をやってもあほらしい、どうでもよい)」、「最低の自分」、「なんの取柄もない自分」という特性をもち、内因性の抑うつ症状と異なるものである。さらに慎重に聴取すれば、万能感、誇大的な自己意識、特別である自分、軽躁的観念に復帰することが確かめられるだろう。他責的であり、自分に問題があっても認めようとしない傾向がある。メランコリー親和型に合致しない抑うつ者である。

境界例のような激しい対人操作や行動化はほとんどないが、自尊心を維持する究極の選択とし� ��自殺がある。自己愛性パーソナリティ障害ではしばしば抑うつの気分が隠蔽されて、否定思考や喜びの感情の喪失(loss of pleasure)、興味・関心の減弱などは自覚されるが、気分の落ち込みは否認される傾向がある。彼らは幼児期から慢性のうつ状態にあり、その躁的防衛として、誇大的自己を生み出すと考えられるからである。

対象関係論の立場から、Masterson は抑うつが出現しない理由として、「自己愛性パーソナリティ障害の精神内界構造は、誇大自己表象 grandiose self representation と万能対象表象 omnipotent object representation から成り立っているが、この両者は融合して一つの単位となり、継続的に活性化されて、基底にある攻撃的な、あるいは空虚な対象関係融合単位 object relation fused unit に対して防衛している。この継続的活性化が抑うつを経験させにくくしている」と述べている。すなわち、後述する誇大的自己は根源的な不安、すなわち「自分は必要とされない」、「無価値である」、「愛されない」という感情を防衛し、その不安からくる抑うつを防衛する役割が与えられているのである。

受診は誇大的自己(思い描いている自分)が現実に直面して機能しない状態に陥ったときに(挫折など)、もう一つの自分である取柄のない自分に回帰するためである。

したがってどのような事態でうつに陥ったかをきくことは重要である。思い描いている自分でいられない状態に陥ったことがうつに関連するかを明確化し、直面させ、解釈をしていくことが重要である。

2)引きこもり


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統合失調症の自閉は外界からの侵入を防御するため自らを閉ざす行動であるが、自己愛性引きこもりは傷ついた自尊心を保護するために、現実世界から撤退して引きこもり、そのなかで自分の万能的自己、理想的自己を実現する行動である。筆者はそれを「栄光ある撤退」と名づけている。登校拒否児や社会的引きこもり生活を続けている人に自己愛性人格障害が多いのは「栄光ある撤退」を維持することに関連している。そうした引きこもり生活に陥った患者は現実世界に対して自分をおとしめ、迫害する脅威と感じ、さらに引きこもり生活を維持しようとする。彼らは「失敗するのが怖い」「叱られるのが怖い」「だめだと思われるのが怖い」と述べる� ��、そうしたことを話せるようになるには治療者に対して理想化転移を起こし、信頼関係ができてからである。彼らは徹底して生きる空間を限局し、その中で万能感を再び構築しようと試みる。

3)怒り

キレるというような怒りは自己の万能感の崩壊に関連する。自分が批判されたり、正当な評価を得ていないと感じたり、自分が見下されたと感じたとき、あるいは不公平な扱いを受けたと感じたときにも、嫉妬や羨望を感じたときにも出現する。激しい攻撃性、怒りの表出を防衛しているのが万能感である。

栃木県黒磯市の中学生による教師殺人事件、いわゆるバタフライナイフ事件は自己愛性構造をもつ少年のキレるという特性を示している。加害者は保健室登校の少年で、過敏性大腸炎という心身症を呈していた。注意欠陥/多動性障害 attention-deficit/hyperactivity disorder (AD/HD)も合併していたかもしれない。授業中騒いで歩き回り、女性教師に注意されている。彼は自信のない少年であったが、それを挽回する魔法の道具を手に入れていた。それがバタフライナイフであった。それを突きつければ教師は自分の前にひれ伏すと幻想を抱いたに違いない。バタフライナイフが彼の万能感の象徴であったのだろう。しかし、授業後、突きつけたナイフに教師はひるまなかった。そこで彼の万能感が壊れ、自分でも説明のつかない怒りにとらわれ教師を滅多刺しにするという凶行に及んだと推定される。普段小心な暴走族の少年がバイクという万能感を与える道具を駆使しているさなか、注意を加えた大人を殺害したという事件もこの万能感が壊れるという心理機制が関与しているだろう。人生最初期にふさわし� �養育されてこなかったという体験は怒りを常に内包している。キレるということによって、壊れた万能感を一時的に回復する作用があるためにキレやすく、怒りを維持しようとする。家庭内暴力における彼らの怒りはこの典型である。

4)強迫症

強迫症はうつ病、統合失調症などさまざまな障害で生じるが、従来指摘されてこなかった障害として、自己愛性パーソナリティ障害を挙げることができる。通常の強迫性障害と異なって、彼らは症状をそれほど苦痛と思わないために、強迫症の訴えを診察時に見逃すことが少なくない。

強迫症は自己の意思に反して同じ思考、観念、行動を反復する様式をもつが、その根底には完全を期することによって、常に存在する漠然とした自己不全感からくる不安を引き下げようとする機構が関与している。自己不全感、自己不信という根源的不安を防衛し、さらにその防衛を補強するために不確かさを排除し、「かりそめの完全」を反復するするという行為や思考によって完成させようとする。統合失調症の初期に強迫症� ��少なからず出現する理由は、彼らの増大してくる内的不確実性を「強迫」によって防衛するところにあると考えられるだろう。笠原は「人生における不確実性、予測不能性、曖昧性に対する防衛」と強迫症をとらえ、その防御策として「単純明快な生活信条、狭隘化した生活様式を設定して、確実で予測可能な世界を構築できるという空想的万能感を抱いている」と述べているが、Masterson も「誇大的自己を投影するとき、自己の特別性を堅持し、自己の偉大さ、独自な完全性が完璧に映し出されることを期待し、対象を完璧なものに理想化して共有することを期待する」として自己が完全・完璧であることによって自己を防衛することを指摘している。

現実の世界では完全・完璧を構築することに失敗した彼らは、神聖領域を作り上げ、そこで仮想の完全世界を構築すること始める。

5.基本病理

治療と成因に立ち入る前に自己愛性構造について述べなくてはならない。この領域についてはすでに Kernberg,Kohut,Masterson などがおのおの精神分析的立場から詳述しているが、筆者はできるだけ現象学的な記述からこの問題を考えていきたい。

1)「思い描いている自分」と「取柄のない自分」

自己愛性パーソナリティ障害の人格構造は万能的・理想的自己と無能的・無価値的自己に分極し、両極のあいだを鋭角的な振幅を繰り返すところにある。この骨格を自己愛性構造と呼ぶことにする。

「思い描いている自分」は決して実現することがない自分であり、それを知りながらいつか魔法のような出来事で実現すると信じているような自分である(「どんなに現実が厳しくても、9回の裏2アウトで満塁逆転ホームランを打てるような自分を信じていました。神の手で引き上げられると信じて疑わなかったので、引きこもっていても不安はありませんでした」)(「いつも何とかなると信じていたから、引きこもっていても不安はありませんでした。実は、何とかなん� ��、起こらなかったんですけどね」)。

統合失調症の妄想と異なる点は、彼らはその誇大的な妄想がどこか作り物であることを知っていることである。Kohut の誇大的自己(理想的・万能的自己)はこの思い描いている自分に相当する。それと対比するもう一つの自分は「取柄のない自分」である。最低で・ゲジゲジのような・ヘドロのような自分と形容し、誇大的自己を鏡像に映したような無能的・無価値的自己が取柄のない自己である。自己愛性構造は「思い描いている自分」と「取柄のない自分」という2つの偽の自分に分極化している。「思い描いている自分とはどういう自分でしょうか?」という問いかけに対して彼らは実感を伴ってそれを認識し、述べることができるが、「それでは等身大の自分というのはどういう自分なのかイメージがわきますか?」と問うと、彼らは一様に絶句して、「そういう自分はどういうものなのかわからない」「そんなものは自分になかったと思う」と� ��える。等身大という真の自分、「自分は自分以上ではないけれど、そう捨てたものではない」という感覚を彼らは物心がついたときからもち合わせていないのである。そういう意味で、彼らは深刻な自我同一性障害をもっているのである。治療はこの真の自分を発見し、育てることにある。彼らは養育の初期に誇大的自己というルートに入り込んで、それを真の自分とみなすことによって自己の不信感や無価値感を隠蔽してきたのである。

「思い描いている自分」はいくつかの特性がある。第一に自分が「普通」「平均」「並」「平凡」であることを許さないことであり、常に自分は他者よりも隔別した存在であること、すなわち人よりもはるかに優れ、特殊化され、完璧であり、特別に選ばれた存在であることを要求する自分であ� ��。そして自己の特別性を堅持し、自己の偉大性と完全性を他者に映し出されることを要求する自分である。この特殊な自己意識は表出することによって人間関係がうまくいかないことを学習した結果、それを覆い隠していることも少なくないが、分析の過程で顕在化する。この特別な自分は当然、現実生活で機能しないために現実は常に脅威に満ち、迫害的であると感じている。

自尊心には健康な自尊心と病理的な自尊心がある。健康な自尊心は自分を大切にし、他者の尊厳を認めるという互恵的関係があり、現実に立脚し、地道に課題に取り組むという向上心につながるものであるが、「思い描いている自分」が作り出す自尊心は病理的な自尊心である。それは他者を見下し、自己の優位性を強調し、自らが傷つくことに敏感であ� ��という特徴があり、努力しないで結果だけを求めるというかたちを作る。本質的に彼らの価値観は結果主義なのである。「思い描いている自分」は着陸装置のないジェット機にたとえられる。自尊心・賞賛という燃料を大量に消費して飛び続けているうちはよいが、燃料の供給が途絶えれば「取柄のない自分」に墜落するしかない。着陸できる「等身大の自分」がないからである。

思い描いている自分は現実には自己破壊的である。現実と直面して自己愛の三徴(四徴)を出しながら自己不信や自己の無価値感を増強し、それを補償するためにさらに誇大的自己を増強するという無限ループを形成する。そのなかでは等身大の自分は、思い描いている自分からみればとるに足らない情けない自分であり、決して受け入れることができ� ��い。精神療法で最初に治療抵抗をするのはこの誇大的自己の働きによる。

彼らは決して怠け者ではない。むしろ順調に事が進み、成果が期待できるときには彼らは人一倍がんばるのである。しかし、自分の思う通りにならない事態に至ると、一切に努力を放擲してしまう。all or nothing なのである。人生課題は少年期には思う通りになることが多いが、思春期を迎えて以降は少なくなっていくという現実から、必然的に彼らは次第に nothing のモードに入っていく。引きこもり、あるいは自己嘔吐を繰り返し、あるいは無気力な生活に入り込んでついには何もできなくなってしまう。そして「取柄のない自分」の状態が持続する。


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「取柄のない自分」と「思い描いている自分」は鏡像のような対称的関係にあり、表裏のような関係にある。薬物やアルコールの摂取、思いがけない成功や達成、些細でも賞賛を浴びること、自分の強さや独自性が発揮できたときなどの体験によって「取柄のない自分」のモードから一挙に万能的な「思い描いている自分」に復帰する。転落と上昇を鋭角的に繰り返すのが自己愛性構造である。

そもそも思い描いている自分と取柄のない自分はほとんどすべての人間がもつ構造であろう。「うぬぼれと瘡っけ(性病)のない人はいない」という江戸時代からの指摘はこのあたりの事情をを物語るだろう。賞賛を求めたり、自� �を一挙に失ったり、意気天に昇り、あるいは失意のどん底に落ちるということは青年ではごく普通のことである。それが病理であるかどうかは「等身大の自分」が確かなものとして存在しているかどうかにかかっている。思う通りにならないとき等身大の自分があれば、目標設定を低めたり、もっと準備が必要であると考えたり、やり直したりすることができる。自己愛性構造の中心はこの自己機能が働かないところにある。

2)価値観の病理―結果主義と外的価値

「思い描いている自分や取柄のない自分ではできず、等身大の自分でしかできないことはなにか」という問いかけは、等身大の自分を発見し、それを育てるうえで重要であろう。それは結果よりもプロセス、実現可能な課題に対して地道な努力を続けられることであろう。彼らは結果主義者であり、結果が得られなければ簡単に諦めてしまう。結果さえでれば、途中のプロセスはどうでもよいという。地道な前進を自らに課すことができず、その結果手元に何も残らなくなる。彼らの自己無価値感や自己不信はそのことでいっそう増幅する。「語学でもスポーツでもすぐにはうまくならないでしょう?毎日少しずつ練習や勉強をして前に進んでいくのではないですか?そうして前進できる自� �は好きになれるのではないですか?」と語りかけることの意味はそこにある。自己愛性パーソナリティは価値観の病理と密接に関連し、治療上価値観の修正は避けて通れない問題である。

結果主義は現代日本に蔓延する病である。社会・文化的価値観は養育の過程に直接影響し、その後の学校社会、職場社会、家庭生活にも直接・間接に影響を及ぼす。まず価値とは何かから検討することにしよう。

外的価値は他人の評価を通してみえる価値であり、具体的には現代日本では高学歴、高身長、高収入(いわゆる三高)、体脂肪の低さ、容貌の美しさ、職業、服装のセンスや食べ物のセンス、ポリシーある装飾品を身につけること、ポリシーをもってブランド品を所持すること、特殊な知識(オタクなど)あるいは才能をもつこと� ��どである。要するに、人に自慢できるような価値が外的価値である。外的価値は結果によって初めて得られ、結果が得られないものは外的価値になりえない。したがって、結果主義と外的価値とは連動している問題だということができるだろう。

外的価値は、他者からみて「すごいな」と嘆声をあげられることが重要であるので、必ずしもポジティブなものには限らない。「ネガティブでもポジティブでも、特殊であることが大事なのです」「福岡の少年のバスジャック事件は僕にはよくわかります。あれはかつての僕だった。ポジティブに生きられないなら、ネガティブでもよい、自分が他の人と違った、神から恩寵を受けた人間であり、なんでも許される万能者であることを示したかったのだと思います」というような価値観で� ��る。

内的な価値観を記述するのが困難であるのは、客観的にみることができないものであり、他人と共有することができない性質をもっているからであろう。執着気質文化の残渣が続いた1970年代までは、几帳面、律儀、勤勉、まじめ、気配り、正直、役割意識、正義などの内的な価値観が存在していたが、宗教もイデオロギーも支配しておらず、すべてが相対化される現代のこの国では内的価値を維持することは非常に困難なことである。現代において、内的な価値観は何であろうか。あえていえば、「優しさ」と「自分らしさ」「自分に正直」であろうか。この「優しさ」は特殊な優しさであって、自分の周囲にいる人たちに対して相手の心に立ち入らないという点で優しいのである。彼らはとても傷つきやすく、相手が傷つくこ とを思いやることが彼らなりの優しさなのであろう。「自分らしさ」の実体もポリシーとか、スタンスとかボク的とか表現されるもので、単にファッションやアクセサリー、グッズにおける選択基準であったり、ライフスタイルの好みであったりする。「自分に正直」はタテマエで生きることの否定であり、自分の欲望の肯定である。そこには規範やしがらみ、既成観念からの自由、素直な自分の表現を謳っているが、現代の青年が他者からの眼差しからいまだ自由になれていないことが背景にある。これは「楽な自分でいたい」「飾らない自分」「欲しいことに正直」というような使い方と同義のものである。こうして考えると、真の内的価値は崩壊してしまったといわざるをえない。

外的価値優位から生じるものは結果主義である 。結果主義とは「途中のプロセスは関係なく、得られる結果だけがすべてである」という考えと定義することにする。問題はこうした結果主義が子どもの世界にも浸透していることであろう。彼らは、子ども時代からずっと、自分の周囲の人間はいつも結果しかみてくれなかったという。

結果主義は出た結果がすべてで、結果しか問題にしない。結果を出せば勝ちという世界であるから、たとえば、「いくら勉強をしても合格しなければ意味がない」というような考えである。勉強にしても、そこでは何のために勉強をするのかということは問われず、親の圧力と期待、仲間の評価がすべてである。結果主義で失われることは「地道な努力」をすることであり、結果が得られなければ一切の努力が無になるという考え、つまり all or nothing ,悉無律的な考えである。結果主義は現代の日本を支配する価値観である。結果主義と価値観の相対化は同時に進行している。

価値観の相対化は絶対的な価値をもはや信じることができなくなった
ことを意味する。また絶対的価値を主張することや保持することは対人関係の葛藤を先鋭化する。その根底には、他者からの批判や攻撃を恐れそれによって傷つくことを恐れているという心性が伝わる。明確な価値基準をもつ者は集団の中で浮いた存在になる危険性が高くなるのである。現実に進行している価値観の相対化は自分なりの基準であり、すべてが相対化され、自由に伴う責任と義務の視点が見事に欠落している。こうした価値観の相対化に呼応して、自我拡散を示す症例が臨床の場で増えてきたのである。問題は彼らが納得するような新しい価値体系をいまだ大人たちが示すことができないことであろう。

自己愛性パーソナリティ障害の誇大的自己は常に他者よりも卓絶した存在である自分を求める。万能であるという� ��酔を求め続けるのである。しかし、現実の中で実現できる万能は限られている。全員がヒトラーや三島由紀夫になれるわけではない。その折り合いは現実の価値観のなかで輝いている自分を見出すところにあるだろう。父、母、学校、社会全体が今求めている価値観は結果主義であり、支配しているのは外的価値観である。彼らは常に価値観に導かれている。その価値観に敏感でなくてはならず、価値観の修正が「確かな大人」「手応えのある大人」との出会いを治療の場で用意するのである。

3)勝ち負けと競争、嫉妬と羨望

外的価値観の優位と結果主義は勝ち負けだけの世界を用意する。たとえば摂食障害の患者は「ほかの女性よりもやせていると感じたら勝った! と思う」といい、オタクの世界や仕事の世界でも他者との勝ち負けが重要になる。人よりも優れていること。それも画然とした優位を彼らは求める。負けたと感じたら、彼らは競技場から去り、nothing に陥っていしまう。勝ち負けの世界は必然的に嫉妬と羨望を呼び起こす。逆もまた真である。

人生を彼らはトラック競技のように考えている。われわれの前に来る患者は、一周遅れてしまって競技に参加することを投げ捨ててしまった選手のようである。しかし、人生というのは一斉にスタートしてゴールに何着で入るのかという競技ではない。本質的にプロセスの連続でしかないであろう。こうした本質的な問題を教えてくれる大人が彼らの周囲にはいなかった。

嫉妬と羨望の感情のルーツは誇大的自己の成立と深い関係をもっているが、彼らの幼いときからの養育が、「ほかの子に負けないで」という願いや期待をかけられていること、両親の価値観がそもそも結果主義であることと関係があるだろう。

羨望の感情と病� ��的攻撃性は自己愛性パーソナリティの重要な標識である。この感情は言語発達以前、おそらく個体分離期以前から出現し、その後も持続する感情である。

6.自己愛性構造の形成

彼らは両親から明確な虐待を受けた人ではない。両親の愛情が乏しい人でもない。比較的整った家庭で育ち、両親の社会的地位も高い人が多い。両親像は様々であるが、父親が自己愛性パーソナリティ障害傾向をもち、母親の共感性が乏しいというパターンが比較的多いように思う。


多くの患者は「母は自分がいくら間違っても絶対に『悪かった』とか『ごめんね』といいませんでした。必ず『だって…』と自分を正当化する。『それはあなたのためよ』ともいう。それで結局私が悪いということになってしまうんです」ということをいう。思いやることの乏しさと共感性の乏しさと、不安のレベルが高いことなど、自己の防衛が頻繁に発動される例である。

多くの家族は結果主義である。「いつも結果を求められていました。95点をとると、『なぜあと5点とれなかったの』と叱られるんです。私はいつも完璧でなくてはいけなかったんです」「グズグズいわずに結果を出せというのが父の口癖でした」

養育の早期切り上げも多くの症例でみられる。すなわち、子� �もを早く自立させ、輝かしい子どもになってほしいという親の自己愛の対象にされているのである。彼らは甘やかされているが、甘えを体験していない(「甘えるという言葉はわかるけど、それがどういうものかさっぱりイメージがわきません」という)。親の子どもに対する期待は大きい。親が実現できなかった欲望、得られなかった欲望という、親自身の欲望の照射を受けて養育されているのである。それは無意識下に行われるので、親も子どもも気がつかないまま進行するのである。そこに無条件の愛の欠落がある。

分析が進むと、彼らは「両親は自分に計算や打算が働いている」「確かに大切に育てられたとは思うけど、自分は無条件には愛されない。自分が認められるには条件がいる。それが何かはわからないけど」と語� �。「自分は生まれてきたくなかったのに、親が勝手に生んだのだから責任をとってほしい」「生まれてきてごめんなさいという感覚がいつもある」という。こうした無価値感、自己不信感、愛されていることの疑惑は兄弟に対する嫉妬と羨望の感情と併存している。

生のシステムとして幼い子どもは母親を鏡として使い、親の顔をみてその喜ぶ顔をみようとする。期待に応えようとする行動自体はおそらく合目的的な行動であり、この行動によって子どもは学習し、適応を獲得していくのである。母親も自分を頼りにして愛情に反応する子どもを必要とする。もし親の自己愛が病理的あれば、子どのそうした無力を利用して自己愛を満足させる道具として使い、あるいは自己の不全感や「果たせなかった欲望」という自己愛の傷つき� �子どもに照射して「輝かしい子どもという期待」をもって養育に当たるだろう。そこに「自分は無条件には愛されない」という強力な幻想を生み出す基盤を用意させる。兄弟葛藤はいっそう事態を促進させる。すなわち愛の独占が一方的に奪われるのであり、嫉妬と羨望のルーツはそこからも生じる。

嫉妬と羨望の感情の強さは生得的なものであると Kohut や Masterson は考えているが、この感情の強さは母親の愛情に反応する子どもの反応に影響を与え、母親のささやかな拒否や失望にも反応し、子どもは失望を感じて自分の愛着行動を抑制し、それが母親の自己愛的不安を増幅して自分に頼らない良い子とみなしてその不安を防衛する。自己増殖的なループがそこに生じるのだと考えられる。

無条件には愛されないという強力な幻想をもつ子どもは、愛されない、愛される価値がないという無力感と無価値感を防衛するために万能的な自己を発展させる道を選ぶ。「僕はみんなから仰ぎみられるような存在になって、母が初めて自分の偉大さに気づいて改心し自分のところに戻ってくることを幼いときに夢想していました」「自分は天才だから母親の愛情なんていらないと思っていました」と語る文 脈は誇大的自己が愛されない、自分を愛せないことの防衛であることを物語る。たとえてみると、彼らは食べたいごちそうを前に母親から「これは全部あなたのじゃないの! 先に食べないで」と叱られた子どもがすねて「僕、いらないよ」と席を立つ姿に似ている。愛を拒否するのは幼い子どもの意地(自尊心)であろう。ある患者は「自分は子どものころに何か引き合わない取引をしたように感じる。多分、甘えることと引き替えに、誇りを手に入れるような」と語っている。愛と甘えを断念した子どもが次の発達段階で獲得するのは自尊心という切符である。裏には自己不信が印刷されている。

現代の親はいくつかの幻想に支配されている。たとえば、子どもを早く自立させなければならない、親は子どもの自由を奪ってはなら ない(自己決定権は子どもにゆだねる)、好きな道で才能を伸ばさせたいなどである。そのほか高い教育を施さないと将来幸せにはならない、その道でリーダーシップをとれる人間にしたい、人気のある子どもにしたいなど、親の欲望もある。それらは彼らの確たる信念であり、強迫的ともいってよい観念であり、彼らに疑う余地もないような自明なこと、社会の共通価値基準だと信じている。しかし子どものある時期は親の存在を必要とし、親に依存し、保護される必要があるのである。幼児期における世界への参入には親のサポートを必要とするものである。そして子どもの正常な向上心の発達には手応えのある大人との出会いを必要とする。手応えのある大人とは優しくて、強くて、わかってくれる大人であり、この3つの要素の一� ��でも欠いた大人は手応えのある大人とはいえない。優しくて物わかりがよいけど力強さが欠ける大人、強いが、優しくない大人は大勢いる。そうした手応えのある大人との出会いを通じて子どもたちは自分たちの幼児的万能感を譲り渡すことができ、自分もそうした大人になろうと、向上心を発達させていく。治療では誇大的自己を映し出す立派な鏡として治療者を利用する理想化転移・鏡像転移が治療推進に大きな力をもつが、治療者が手応えのある大人である役割を引き受けることの治療的意味もそこにある。

7.治療

薬物療法は対症療法の域を出ない。抑うつ症状が前景に出現するので、選択的セロトニン再取り込み阻害薬 selective serotonin reuptake inhibitor(SSRI)をよく処方する。この抑うつには抗うつ薬はほとんど有効性がないのが特徴であるが、SSRI には「まあ、いいか感覚」を形成する力があるので頻用するのである。

精神療法は与えられた紙幅で記載することは困難なので、ここでは要約的に記載することにする。筆者の治療は伝統的精神分析療法ではない。自我心理学や対象関係論の示唆を受けてはいるが、基本的には認知療法的技法を用いている。

1、初回面接が重要である。これに失敗すると治療も初回で失敗する。患者は傷つきやすく、些細な精神療法の失敗によって治療は簡単に中断する可能性が常に高い。

初回面接か、できるだけ早い時期に、自己愛性構造を提示し、「自分を愛せない病理」と告知し、「等身大の自分を発見し育てることが目標」と目標設定を明示。このことにより、早期に「自分を初めて魔法のように理解した人に出会えた」という理� ��化転移を引き出すことができる。

2、患者のもつ様々な幻想を明確化、直面化、解釈を通じて修正を図る。パーソナリティ障害は幻想の病理であり、不安や病理的な反応は現実によって引き起こされたと感じても、実際は幼いときに形成された原型となる幻想の再現であることを解釈していく。

3、治療者は手応えのある大人である必要がある。患者の歪んだ価値観の修正を図り、現実で生きられる力をつけられるように、方向を指し示すことが重要である。

4、「自分は自分以上でないし、自分以下でもない。ありのままの自分でいいんだ」という自己感覚を受け入れることができれば、それが等身大の自分である。その感覚の成立には治療者という触媒が必要である。そこには転移という問題が避けられず、逆転移操� �が重要である。治療の失敗は治療者がわかってあげられる存在であることに失敗して失望を呼び起こし、価値下げを引き起こすか、逆転移に巻き込まれてしまうパターンが多い。患者の病理的な攻撃性、怒り、嫉妬と羨望の感情、見下しを吸収して、生じている事態を明確化し、直面化し、解釈していく技術は必須なものとなる。

5、幻想を扱うことが主要な課題となるが、現実の自分を支配している幻想のかたちを患者自身の目に見えるようにすること、そのためには豊富な比喩を用いること、みえるようになった幻想を自分の手で扱えるようにすること、それをどのようにすれば修正できるようになるかを検討することが治療の骨格である。


【文献】
1) American Psychiatric Association : Quick Reference to the Diagnostic Criteria from DSM-IV, APA, Washington DC(1994)
2) 市橋秀夫:パーソナリティ障害の抑うつ.精神科治療学 13:137-141(1998)
3) 市橋秀夫:強迫症状と自己愛性人格構造.精神科治療学 14:835-842(1999)
4) 市橋秀夫:内的価値の崩壊と結果主義はどのように精神発達に影響しているか.精神科治療学 15:1229-1236(2000)
5) 市橋秀夫:境界性人格障害と自己愛性人格障害の表出.精神科治療学 17:1231-1234(2002)
6) 笠原 嘉:うつ病の病前性格について.躁うつ病の精神病理1, 笠原 嘉(編), pp1-29, 弘文堂, 東京(1976)
7) Kernberg OF: Severe Personality Disorders : Psychotherapeutic Strategies, Yale University Press, London(1986)
8) Kohut H : The Analysis of the Self : A Systematic Approach to the Psychoanalytic Treatment of Narcissistic Personality Disorder, International University Press, New York(1971)―水野信義ほか(監訳):自己の分析, みすず書房, 東京(1990)
9) Masterson JF : The Narcissistic and Borderline Disorders : An Integrated Developmental Aproach, Brunner/Mazel, New York(1981)―富山幸佑ほか(訳):自己愛と境界例―発達理論に基づく統合的アプローチ, 星和書店, 東京(1990)

【出典】
加藤敏 新宮一成編(2008)『現代医療文化のなかの人格障害』中山書店pp247-260

(update 2011/12/27)



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